2014年3月19日水曜日

OKバジ20周年の旅  記念行事当日

前日の夜、タンセンの外国人向けのレストランでバジさんと会う手配をロスさんにして貰い、式典の始まりよりも早く着くように出かけることにします。
式典の開始は12:10だと聞いていましたが、タンセンを7:00に出て、会場のランプールに向かいます。タンセンからはタクシーでは走れない道なので、4輪駆動のジープです。

開始時間が半端なのはネパールの人達がきっちりした数を嫌うからなのだそうです。ウ~ン、まあアバウトな方が好きなんでしょうね。日本人には好まれない区切りですね。(笑)

 

4時間かかると言われていた到着も、運転手の青年の運転が良かったのか10:00前に到着できました。彼は途中で私達に風船ガムを買ってくれたり、自分たちの車の後部座席(私達お客が乗る場所でない部分)に歩いて会場に向かおうとしていた人達を乗せてあげたり、なかなかの好青年でした。めったにあげないチップを彼にはあげました。.

早めに着いた私達は、バジさんとお話を。ここはロスさんがきちんとやってくれました。


お店でお茶を飲みながら話していましたが、いろんな人が挨拶に来るので落ち着きません。バジさんがもっと人の来ないお店に移動しましょうと私達を外に連れ出したら、大会委員のシャルマさん達とバッタリです。



私の左横にタオルを首に掛けているのがOKバジこと垣見一雅さん、垣見さんの後ろに隠れているのが三重OKSSの前島御上人、私の右がシャルマさんです。シャルマさんの横のピンクの上着を着ておられるのが、神戸三宮でネパール料理のお店を経営されている、これまたシャルマさんです。



私の横のシャルマさんは、新聞社の編集長で、去年の6月に日本に講演をしに来てくれた方です。
左の写真では、バジさんに記念出版物の説明をしています。

右の写真では、「こいつが ZENPO だ。」って、村の方に私を説明しています。

シャルマさんには、私の寺、普濟寺でもバジさんとご一緒に講演をおねがいしたのですが、講演の日朝食の後に持病の薬をなくされたことに気づかれました。
日本で病院にかかるのは大変なことだし、次の講演日程にも間に合わなくなります。お金も払えないだろうしと困惑していたところ、講演を聴きに来て下さっていたA先生がお力を貸して下さいました。

ほんの数十分の間に、普濟寺からご自分の病院までお薬を取りに行き、駅までお薬を届けて下さったのです。私がお支払いをしようとしたら、「支援です。」とだけ言われて、一銭もお取りにならずにさっとお帰りになりました。私自身もその決断と行動の速さに驚き、感動すら覚えた出来事でした。

シャルマさんも、決してこのことを忘れていませんでした。
バジさんに聞いたところ、A先生と私のことは何度も話に出して、ありがたかったとおっしゃってくれていたようです。この方は、最後から2番目の人気のあった国王に、「パルパの鷹」と呼ばれた大変な実力を備えたジャーナリストだそうです。




バジさんに会いたい人は、限りがありません。この日は2万人以上の人が来ると言われていて、会えると思っていなかった左上の女性は、偶然会えたことに喜びと驚きの声を上げています。ネパールの女性がこんな風に振る舞うことは滅多にないかもしれません。でも、それほど驚いたし嬉しかったのでしょう。

落ち着いて話せるはずの店に到着しましたが、人はひっきりなしです。「OK Baji!」「OK Baji!」といろんな所から声が聞こえてきます。

大事な用件の話が終わる頃には、バジさんの着替えの時間になりました。10周年記念の時に大会委員会が作ってくれたネパール人の正装に着替えるのだそうです。
「それに合わせる靴はないよ。スニーカーしか持ってないもの。」のバジさんの言葉に、大会委員の一人が「バジ、私の靴を履きなさい。スニーカーはダメです。」と自分の靴を差し出しました。

なんて素敵な場面なんでしょう。やっぱり、ネパールでこんなに愛されている外国人はOKバジさんしかいないと思えた場面でした。




パルパの鷹-シャルマさんと一緒に写真を撮りました。




式典が始まりました。バジさんへの感謝状から始まりましたが、何せネパール語。何を言っているかは正確には分かりません。

 

しばらくすると壇上に呼ばれて、日本の支援団体から各代表一人だけが壇上に登りました。
バイオガストイレを私に教えてくれた、愛媛の支援団体CCWAの代表-池田さんにお久しぶりに会わせて頂きました。
私のことを覚えていて下さって、お声をかけて下さり、その後の報告などをさせて頂きました。支援活動がうまく運ばなくて落ち込んでいたときに、池田さんのメールに励まされた覚えがあり、お会いできて本当に嬉しくなりました。
おばあちゃまと言うには、あまりにお若く、颯爽とした話し方の裏にある暖かな、そして包み込むような人間尊重の精神に敬意を感じざるを得ません。



そうこうするうちに、サチコールの子らの初舞台が始まりました。
青いワンピースに白いスカーフを巻いているのは、『花のおかあさん』の著者、桜井ひろ子さんです。サチコール村に1年の内5ヶ月間暮らしていらっしゃいます。

右横はこの子達の演奏と歌を指導した横井久美子さんです。『戦車は動けない』のシンガーソングライターで、先日サチコール村にマーガル族の伝統的な建築様式で音楽堂を建てられたばかりです。芯の通った素敵な方です。




国士舘大学の学生さん達も、ちょっとだけネパール語の勧善懲悪チャンバラ劇を披露してくれ、会場を沸かせました。若いっていいなあと思える、清々しい若者達でした。みんなお腹を壊してしまっていたのに、精一杯やってくれました。
この学生さん達、実はバイオガストイレの穴掘りの支援活動に来てくれていたんです。ありがたいことです。

地元の若い娘達も踊りを披露してくれました。




私達が会場を去る頃までには、まだ到着しない人達が多かったようです。
日が暮れて、涼しくなった頃に出かけてくる人達も多かったようで、私は自分たちが支援して校舎を建てた村の人達に会うことはできませんでした。



OKバジさんにお礼を伝えに来た人達の行列です。今回はお土産は持ってこないように連絡したらしいのですが、感謝状だけでなく、カバンやシャツやいろんなお土産を持ってくる人達は後を絶ちません。この行列は延々と8:30頃まで続いたそうです。




下の写真、何を売っているんだと思います?
吹くと音が出て伸びる紙風船の笛みたいなやつです。
日本でも屋台で売っていたりしますよね。




左の写真は日陰で一休みの一コマ
写真は滅多に見られないので、子ども達はみんな後ろから見学です。

右は「ナマステ~」の挨拶でやってきたサチコールの子ども達です。




下の写真は、OKバジさんのために建てられた記念碑です。
でも、バジさん苦笑い。

格好がどうも日本のお墓に似ていますよね。
それに Memorial Pillar の、Memorial って言うのは亡くなった人を偲ぶ場合に使う単語なんだそうです。
「まだ生きてるんだけどねえ....」とおっしゃっていました。(笑)




このページから三重OKSSの小山さんに頂いた写真データも使わせて頂いております。

小山さん、ありがとうございます。




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